Saturday, April 8, 2023

「打たれても堂々としていろ」 大野豊氏があこがれた奪三振王の ... - 朝日新聞デジタル

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A-stories 38歳でエンゼルスに誘われた男

30年前、38歳で大リーグ・エンゼルスから誘われた左腕がいました。カープ一筋で43歳まで投げ続け、殿堂入りを果たした大野豊さん。決して野球エリートではなかった自らの人生を語ります。

 サラリーマンになり3年近くが過ぎた頃、人生の、またとない好機を迎えました。1977年2月、広島カープの入団テストを受けられることになったのです。

 職場には辞表を出すことにしました。「勤め上げよう」と考えていた出雲市信組ですが、何が何でも合格したくて、「退路を断たねば」と思い詰めたのです。

 受け取った野球部監督でもあった常務は、辞表を預かりにしました。「1週間休みをあげるから休暇届を出しなさい。落ちても黙って帰ってくればいいから」

 出雲市信組の後輩に手伝ってもらい、真冬の早朝、仕事前に母校の中学で本番に備えました。雨や雪が降ってもいいように、屋根のある相撲場をマウンド代わりにしたものです。

 広島・呉であったテストの後、スカウト部長の木庭教(きにわ・さとし)さんに呼ばれ、合格を告げられました。衣笠祥雄さんや達川光男、高橋慶彦、川口和久らを入団させ、カープ黄金期を支えた「伝説のスカウト」です。

 選手の潜在能力を見抜く眼力がひときわ鋭かったうえに、身辺に目配りをする方でした。実は僕のことも高校時代からご存じでしたが、母を残して出雲を離れられがたい境遇でもあり、当時は手を引いたそうです。

 それだけに、こうも言われました。「採用はする。でもお堅い信用組合におった方がいいんじゃないか」

 念願かなった僕の耳に、木庭さんの言葉は響きません。

 「いえ、失敗してもいいんです。なんとしてもやってみたいのです」

 そして春になり、初めて広島東洋カープのユニホームに袖を通しました。21歳、背番号60からのスタートです。あの日の晴れがましさを忘れることはありません。

 「粗削りだが、左腕で、球が速い」と、将来性を買われ、入団に至りました。支度金は100万円。月給は13万円と信組時代の倍以上になります。

 2軍戦で登板を重ね、8月には1軍に昇格します。ついこの間まで軟式の投手だったのに、スターぞろいの晴れ舞台へ――。驚くほど順調な滑り出しだと思いました。

師匠となる江夏豊さんがカープに その助言は

 それもほどなく暗転します…

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