「靴下屋」「Tabio」「TabioMEN」などの靴下専門店を運営・展開するタビオ株式会社は、2023年3月10日(金)に創業55周年を迎えることができました。1968年の創業以来、「靴下を履いていることを忘れてしまうような“第2の皮膚”」を目指し、追求してまいりました。繊細な履き心地を実現するために、弊社の靴下は長年の経験と技術を積んだ日本の職人たちが一つひとつ丁寧に編み立てています。
このストーリーでは、創業からの事業成長を振り返りながら、変わらない弊社の靴下に対する想いをご紹介します。
1968年の創業時、資金のない男の信用だけで取引をしてくれた工場のおかげで商品が揃う
1968年、タビオ創業者の越智直正は当時勤めていた会社を辞め、同僚と3人で靴下専門卸問屋を創業しました。創業資金は13万円。当然のことながら、資金のない男と信用だけで取引をしてくれる工場など簡単には見つかりません。困り果てていると、古くからの友人であったBSソックス社の山下晴彦さんが救いの神となり、20日締めの月末現金払いの支払条件で、一応の商品が揃うことになりました。その時の気持ちそのままに「男一匹や『男』にしとけ」と言ったのがローマ字で男の「dan」となり、旧社名になったのです。
「靴下業界の良心たれ」という創業者の熱い思いとともに小さな産声をあげた弊社。「品質よりも価格」を優先する風潮が強まるあまり、今では市場に並ぶ商品のほとんどが海外製品によって占められるにいたるなど、日本の靴下産業は壊滅的な打撃を受けています。しかし弊社はこうした時代の風潮に決して屈することなく、「お客様の足に優しい靴下」を追求し、高度な技術力に裏打ちされたMade in Japanのものづくりを続けてまいりました。
本格的なモノづくりのはじまり
創業当時の弊社が扱っていた商品は、工場で作った靴下を買い集めたものでした。経費は詰められる限り詰めていたのに、ほとんど利益が出ません。いくら厳選しても自分たちで企画した商品でなければ駄目だという結論に至りました。そんな中、BSソックス社から仕入れた、96本のリンクス機で編まれたハイソックスが気になり、社長の山下さんに工場を教えてもらいました。訪ねた先は堀内正弘(元靴下屋CSM技術部長)。越智と堀内は時の経つのも忘れ、今まで抑えていた気持ちや夢を語り合いました。これが端緒となり、ダンの企画商品がスタートしました。
専門店を目指さなければブランドは育たない、と決心した
他の工場にも必死になって頼み込み、2点3点と企画商品をつくり始めました。当時、靴下1点の最低生産ロットは3千足。得意先の小型量販店や雑貨店で販売できる数量ではなかったため、大手量販店への売り込みに努めました。零細企業で後発のダンなど相手にしてくれないと分かっていても、切羽詰まっていたためやむを得ませんでした。
量販店での評価は「商品は良いが値段が高すぎる」というものでした。「高い」とは分かっていても、品質を落とすことはできません。プライドが許さなかったのです。お客様が憧れの気持ちを抱いて来てくれる専門店でなければブランドは育たない、専門店の時代が来ると意を決し、婦人服専門店の「三愛」、「鈴屋」、「玉屋」との取引をスタートしました。
売れ筋商品の販売管理を試行錯誤。コンピュータなき時代のヒントは「パン屋」と「本屋」から
そんな頃、高知市のエルセ社の社長、徳弘英一さんが訪ねて来られ「うちとも取引をして欲しい」と声をかけていただきました。とても嬉しかったのですが、靴下は売れ筋商品のフォロー、すなわちきめ細かい在庫管理が命にも関わらず、頻繁に高知のお店と往復する交通費を工面できません。でも、なんとか徳弘さんの熱意に応えたい。
そのときパン屋さんの在庫管理からヒントを得て閃いたのが、遠隔地にいながら、電話でお店の販売状況を把握できる「ユニットコントロールシステム」でした。このシステムは話題を呼び、瞬く間に全国から取引の申し込みを頂き、順調に推移していきました。しかし、このシステムでは販売員がお店の在庫を調べるのに時間がかかり、お得意様に大きな負担が掛かってしまいます。次に本屋の店員が、本からカードを抜いている姿を見て閃いたのが「カードシステム」でした。
靴下1枚1枚にカードを付けて、売れた時に外してもらい、そのカードをダンに送り返して貰えば在庫調べはいらなくなる。こうしてお店に負担を掛けない、販売管理システムが誕生しました。
生産体制の増強により借入れが増え、倒産の危機に
カードシステムは、婦人服専門店に徐々に浸透し、ダンの営業に好転の兆しが見え始めました。新しいお得意様が次々に取引の申し込みにみえだしたのです。成長に確信をもった私たちは、商品の増産と靴下点数の増加に懸命になって取り組みました。
しかし生産体制の増強は、工場の協力が思ったように得られず、頑張れば頑張るほど資金繰りが厳しくなりました。知人、友人から借金を重ねるうちに、借金総額は大きくなるばかり。独立資金はわずか13万円だったのに、5年目の1973年には借金総額が7千万円という途方もない額になりました。明後日に迫った530万円の手形決済の資金が足らず、もう10万円の借金さえお願いできる先がなくなり、ついに倒産の覚悟をしました。
ディベロッパーの「ヤマトー」の藤原敏夫社長に倒産退店の知らせに赴いた時です。藤原社長は黙って話を聞き「借金総額はいくらか」と言うので、「現金が7千万円あまり、その他に手形があります」と伝えると、「なんやて、お前ヤリ手やな~」と大きな声で驚かれたのです。当時、藤原社長は「ニューニチイ(食品)」の社長を兼務する関西でも名うての経営者でした。その一言で目が醒めました。飛び上がるほど勇気が湧いたのです。手形決済当日、330万円のお金を持って信用金庫に飛び込み支店長を説得。危機を回避しました。
「売れるものを売れるだけ作り、売れないものを作らず」。商売の大原則に立ち返った
越智は財務を担当していた今井正孝(元専務)に、「私は今まで借金のヤリ手やったが、これからは返済のヤリ手になろうと思う。なんぞいい方法はないだろうか」と相談を持ち掛けました。すると「売れる物を売れるだけ作れ。売れない物を作るな。そして儲けた中で経費を使え。残ったのが利益だ」と平然と言うのでした。当時の靴下業界の常識からして、それが無茶なことは百も二百も承知していましたが、他に方法がなく納得せざるを得ません。これで目から鱗が落ちたような心境になりました。
少しずつ改善されていく生産体制にカードシステムがマッチして、1980年頃には靴下業界で稀有の成長を遂げました。全国の一流といわれる婦人服専門店のお得意様に囲まれ、お得意様も拡張に継ぐ拡張で、チェーン店数も増えました。
しかしその半面、婦人服専門店では靴下売場に正社員の担当者が付かなくなり、商品知識のないパートかアルバイトに取って替わっていました。靴下売場に正社員をつけてくれるよう、機会あるごとに懇願しましたが、予算の関係で無理だと断られていました。
ある時、靴下専門問屋としてプライドをかけた最高級のアルパカの靴下を作り、勝負に打って出ました。アルパカの靴下は天然素材だけに、洗濯の仕方や干し方などに注意が必要です。取扱説明書だけでは心配になり、営業担当者も各店の販売員さんに、「お客さんに売る際に十分な注意を促してください」と、その徹底を促す説明をして回りました。それにも関わらず、そのプライドをかけた靴下が見るも無残な姿で返品されてきたのです。そのとき突きつけられたのが、「専門店とは何か」という問い掛けでした。
最初の直営店舗、Dan echo三宮1号店のオープン
そんな折、三愛「三宮店」がディベロッパーに方向転換することになり、1坪の売場をダンの直営でやってくれと頼まれました。開店までの毎日、販売員を連れて工場を走り回り、徹底的に靴下の勉強をさせました。開店した店名は「Dan echo三宮1号店」。 1982年のことでした。
付属品だった靴下に市民権を。「靴下屋」の1号店をオープン
Dan echo三宮1号店の成功で靴下の専門店を始められる期待が湧いてきました。会議を開くと、全員が熱い思いを込めて「今までは付属品だった靴下に、市民権を与えるのだ」と熱のこもった議論になりました。
そんな中、久留米でお茶屋さんを営む渕上憲士郎さんから、靴下専門店をやらせて欲しいという申し出がありました。熱心で誠実なご夫妻の情熱に押されて、「言うことを絶対聞くこと。問題があるときは必ず相談すること。靴下の専門店をやる限り、自分が夜逃げするまで責任を持つ」という条件で、1984年11月1日、福岡県久留米市に「靴下屋」第1号店をオープンしました。
システム化と物流効率化の司令塔として、CSM(コスモ)を設立
靴下屋も急成長を遂げ、60店舗くらいになった頃、フランチャイズによる出店の話になりました。コンピュータシステムも、流通センターも整備せずにはさらなる成長が望めません。お店にPOSを導入し、染色工場ともネットワークを接続しましたが、後方支援システムは、産地に流通、検査・試作センターといった、生産の司令塔を構築しなければ完成しません。
そこで「不況産業といわれる靴下業界に、我々の手で桃源郷をつくろう。そして業界の灯火になろう」と、取引工場とともに協同組合靴下屋共栄会(CSM)を設立。その拠点となるCSM(コスモ)棟が完成したのは、構想から4年後の1993年11月11日、「靴下の日」のことでした。業界屈指の検査機器を備えた研究開発室によって靴下の品質管理体制が飛躍的に向上、主力工場から15分の距離にある物流センターは、物流効率を格段に高めることに成功しました。
靴下専業として初となる株式上場と、海外展開の開始
靴下専業で上場している会社はなく、ダンが上場することによって靴下に市民権を与えることができるのではないか。「靴下屋」という業界の名前を冠に頂く店名をつけた以上、業界に対する何らかの責任を果たさなければ。上場することはダンの、そして「靴下屋」の任務ではないか、と思うようになりました。「ダンを上場させれば、お得意様にも工場にも安心して頂ける」。こうして、2000年10月6日、大阪証券取引所2部に上場しました。
また、ダンにとって長年の懸案だった初の海外店舗が、2002年3月、英国・ロンドンにオープンしました。店舗名は「タビオ」。英国の子会社を通じて、ロンドン市内の一等商業地であるキングス・ロードに出店したものでした。グループの海外戦略はこれを皮切りに着実な歩みを遂げており、熟練した靴下職人の手によって一足一足編み上げられた靴下は、ロンドンでも高い評価を獲得し、ロンドンでは多店舗化を進めることになりました。
そのロンドンで蓄積した海外展開のノウハウをもとに、2009年6月に、世界のファッショントレンド発信地であるパリのマレ地区にフランスでの1号店として「タビオ マレ店」をオープン。欧州大陸の1号店となりました。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000001370.html
現在、世界を見る限り、靴下に対する意識はまだまだ低く、ファッションの一つとして気を配っている人はごく少数でしかありません。これまで持たれてきた「靴下は消耗品」という固定観念を打ち破り、本物の靴下の素晴らしさや楽しさを、日本国内にとどまらず、世界中に広めていきたいと思っています。
「タビオ」への社名変更に込めた意味。「流行と基本の秩序正しい調和」を
2006年9月1日、ダンはタビオへと社名を変更しました。30年間、道を共にしてきた愛着のある社名との別れは断腸の思いでしたが、現状に甘んじることなく、世界へと羽ばたくことを心に誓いました。タビオ(Tabio)は、「The Trend And the Basics In Order (流行と基本の秩序正しい調和)」の頭文字をとったもので、Tabioをはいて地球を旅(タビ)しよう、足袋(タビ)の進化形である靴下をさらに進化させよう、という意味が込められています。
タビオに社名変更した2006年から、2020年にかけては、小売業の再編、再再編も進みました。品質より価格が優先される時代や、履き心地よりも見た目が優先される時代が幾度となくあったと振り返ります。
しかし弊社は絶えず創業時の想いと向き合いながら、ひたすら誠実に「お客様の足にやさしい靴下」を追い求めてまいりました。
結果として、多くのお客様にご愛顧いただき、現在では「靴下屋」「Tabio」「Tabio MEN」等の靴下専門店ブランドを日本全国に243店舗(2023年5月末時点)展開するまでとなりました。イギリス(ロンドン)、フランス(パリ)、中国でも「Tabio」を展開しています。
2009年から、靴下の生産地・奈良県広陵町で休耕田を活用したオリジナルコットンの栽培を開始
靴下の生産日本一を誇る奈良では、畑作業ができなくなったまま放置されている休耕田(耕作放棄地)の増加が問題視されています。弊社ではこの休耕田を活用した、オリジナルコットン「TABIO'S COTTON」の栽培をはじめました。理想の綿素材、理想の靴下を目指しながら、地域の活性化も目指します。
経験・知識も豊富な定年後の方々の働きがいになるよう、地元・奈良県のシルバー人材を活用し、種植から綿摘みまで、ひとつひとつ手摘みで収穫しています。 また、農業従事者や近畿大学との産学協同プロジェクトの協力を得て全て有機栽培で収穫をおこない、一切の農薬や化学肥料を使用しない、人の手で栽培された綿花の収穫が実現しました。
自然のままで成長したコットンボールの繊維を機械で傷つけることのないように地元地域のシルバー人材の方がひとつひとつ手で摘み取り収穫。
収穫されたコットンは、繊維長の長い風合いを活かすため、細かな配慮が可能な国内紡績工場で丁寧に糸にしていきます。長い年月の研究と試行錯誤を重ね年々収穫量や品質が安定し、ついに商品販売できる量となりTABIO'S COTTONが完成しました。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000076.000038171.html
2022年8月より、奈良県広陵町で育てた綿花でつくった弊社の紳士ソックスが、同町のふるさと納税返礼品に採用されました。
結びにかえて
弊社は、「熱愛」「顧客中心」「不易流行」「和」という経営理念のもと、モノづくりやお店づくり、人づくりに決して妥協することなく、国内協力工場の皆様やフランチャイズの皆様と強いパートナーシップを築き上げ、お客様にとって最高の商品づくりとお店づくりを続けています。
高品質でファッション性にあふれた靴下を適正な価格でお客様に提供するため、国内の協力工場を含めたグループ全体で情報を共有し、 協力工場の在庫リスクを最小限に抑えながらも、お客様のニーズに敏感に対応できる生産・流通体制の構築に邁進してまいりました。商品管理におきましても独自の高い品質基準を設け、研究開発室にて検査及び品質管理を行い、品質向上を目指しております。
また、お客様が楽しく、喜んで靴下を選んでいただくための接客研究と、お店のスタッフが楽しく働ける環境づくりにも積極的に取り組んでおります。
「品質よりも価格」を優先する風潮が強まるあまり、今では市場に並ぶ商品のほとんどが海外製品によって占められるに至るなど、日本の靴下産業は大きな打撃を受けております。しかし弊社はこうした時代の風潮に決して屈することなく、今後とも全力で「お客様の足にやさしい靴下」を追求し、高度な技術力に裏打ちされたMade in Japanのものづくりとともに、お客様に満足を提供し続けてまいる所存です。
からの記事と詳細 ( 「靴下業界の良心たれ」越智直正が1968年に創業して55年間、多く ... - PR TIMES )
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