sculpies(Photo by iStock)
すぐれた創作論としての散文
文をしたため壜に詰める。誰に向けてか分からない。時を越え海を越え唐突に届く。書く方も読む方もいささかイレギュラーな言葉との出会いとなる。しかしこれも紛れもない言葉の可能性に含まれることがわかる。本書はこうした投壜通信という形にありうる言葉の可能性に向けて書かれた一冊である。誰に届くか分からない私の文章だからこそあなたに届く。「誰でもよい」からこそ「あなた」に届く。本書を受け取った「あなた」である私は個人的に、本書は全体がすぐれた創作論のようになっていると感じた。小説を書いているあなたはもちろん、小説を好きな全てのあなたに届いてほしい。
第二次大戦後にシベリア抑留を経験した詩人石原吉郎の〈シベリア・エッセイ〉の一節を引き〈そこには、起こってしまった状況を追認するしかない手遅れの感と、そのような状況へと陥ることに対する主体の徹底的な受動性が刻み込まれている。〉という分析を加える著者の手つきに、私はジャン・アメリーにおけるゼーバルトの果たした役割を連想した。アウシュヴィッツを含むいくつかの強制収容所体験を経て二十年沈黙したのちにアメリーは自身の体験を“エッセイ”という形式で綴ることを決意する。ゼーバルトによると、収容所体験において「犠牲者のなかでは記憶欠落の島がいくつもできるようになるが、かといってそれで本当に忘却し去れるのかといえば、そうではないのだ。むしろとりとめのない忘却と、記憶から追い出せずにくり返し湧き上がってくる数々の心象とが混ざり合うようになる。」このことによって、「想起すること─恐怖の瞬間のみならず、まがりなりにも平穏だったそれ以前の時代をも想起すること─」までが耐えがたいものとして、記憶を語る主体の安定性は揺さぶられる。ゆえにアメリーにとり一九三三年から十二年の間に起きた決定的な出来事、〈失わざれし時〉を語ることは、さらに戦後二十年かけて「言語形式を探し求めることを意味していた。分節化の能力を麻痺させてしまった経験を、表現にもたらすことのできる言語形式である。」
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